MESSAGE
創業者メッセージ
創業者メッセージ

「創業者の想い」

株式会社 ベクトル
相談役 松永 邦久

 株式会社ベクトルのホームページにアクセスしていただき、 誠にありがとうございます。

 弊社は1990年の設立以来、「顧客の信頼に応え、地域社会への貢献とともに、社員の幸福と、会社の存続を目指す」を経営理念に掲げ、基礎地盤調査から地すべり等自然災害を対象とした防災地質、斜面防災・道路・下水道の設計、更に地すべり対策工事まで、国土の保全に関わる一連の業務をこなせる企業として成長し、2012年7月からは得意分野である「地質調査および斜面防災設計」に集中して、安心・安全な地域社会づくりに邁進してまいりました。

 「ベクトル」とは、「変位・速度・加速度・力のように、大きさのほかに向きを持つ量」という意味の物理用語です。「社員みんなが気持ちをひとつにして同じ方向に向かって進もう」。そんな願いを込めて、社名をベクトルと名付けました。以下、これまでの道程、創業の精神や経営理念に込めた想いについて述べさせていただきます。
天草牛深沖 魚貫炭鉱海上探炭ボーリング(深度1,000m)現場

道程

 ふり返りますと、私がこの道に飛び込んで半世紀以上になります。

 「フィールドワークが好きで、自然を相手に仕事が出来ればどこでもよい」と、大学4年時の担当教授井上正康先生に薦められるまま入社したのが地質調査会社でした。先生は、探査工学の権威でしたが気さくなお人柄で、講義外に地質踏査・探査にもしばしば連れて行っていただき、強い影響を受けました。今考えてみますと、会社はおろか仕事の内容も知らず先生任せで、「与えられた仕事をまじめにやれば何とかなるだろう」と、ある意味いい加減な進路決定ではありました。

 入社当時は、「日本列島改造」のハシリで、高速自動車道の建設、大型ダムの建造、青函トンネル工事等、全国規模で土木事業が展開され始めていた頃です。会社は、従来の探炭ボーリングを始め捌ききれないほどの仕事を抱え活気に溢れていました。私は、天草の魚貫炭鉱での海上探炭ボーリング(深度1000m)を皮切りに、長野県の安曇ダムのグラウト工事実習、九州縦貫自動車道鳥栖・久留米間土質調査、大分県松原ダムグラウト工事施工管理、山口県向津具半島一帯の地すべり調査および対策工事施工管理、同大坊ダム試掘調査、屋久島山頂鉄塔基礎地盤調査などなどの仕事に意欲をもって取り組みました。入社してしばらくは地質調査に対する社会的評価が低く残念な思いをしましたが、業界が時代の要請に応えて地質コンサルタントへと変貌する中、社会的地位が急速に向上して、進んだ道が正しかったと確信しました。そしていつの間にかひと通りの仕事に対応できるようになりました。業界の将来性・私の適性を見抜いてこの道に導いていただいた今は亡き井上先生に心から感謝をしています。
 31才で脱サラし、プレハブの事務所で地すべり調査を中心に連日深夜まで馬車馬のように働きました。41才で大学の先輩の会社西日本地質防災(株)、42才で(株)九北谷藤の役員を務め、1990年(平成2年)1月11日に、46才で(株)ベクトルを設立しました。幸いにも前記両社ともわが国の建設コンサルタント業界No.1のA社との取引がありました。ベクトルは、その流れでA社福岡支店の協力業者として幸運なスタートを切ることができ、その後約6年間お世話になり技術を磨かせていただきました。

 1993年(平成5年)4月から福岡県等官公庁からの受注に向けて営業活動を開始しました。初受注は八女土木事務所(現八女県土整備事務所)からで、1997年(平成9年)度に全15土木事務所、2001年(同13年)度に全6農林事務所、更に福岡県下の市町村でも順次受注実績を重ね、約半数の自治体からの依頼に応えることができました。

 2012年(平成24年)7月には、会社の進むべき道を、得意分野である「地質調査および斜面防災設計」に集中する決断をしました。その理由は、地球温暖化の影響もあり以前にも増して大自然災害が多発し、小さな自然災害も日常的に数多く発生して社会生活に多大な支障を来すことが顕著になってきたからです。私たちは、「地質調査および斜面防災設計」を通じて安心・安全な地域社会づくりを目指すことにしたのです。

 くしくも同年12月に誕生した安倍政権が、「防災・減災(国土強靭化)」政策を打ち出しました。会社と政府が進める政策のベクトルが一致し、当社の前途が大きく開けてきたように感じたことを覚えています。

 あれから9年が過ぎ、山あり谷ありの道のりでしたが、無事今日に至っています。

 これもひとえに多くの皆様方のご指導・ご支援・ご協力によるものと、心より感謝の気持ちでいっぱいです。

一隅を照らす

 私には社会人になって以来、大切にしてきた言葉があります。それは「一隅を照らす。」天台宗を開かれた最澄上人の言葉です。

 実は、この言葉は私の父が大切にしていた言葉なのです。父は、自分史の中で述べています。「社会のほんの片隅で何か人のためになりたい。一隅を照らす実践を通じて、なくてはならない人となり、なくてはならない人を育てたい、という思いで教師という職業に励んだ」。私が小さい頃、お盆・正月には帰省した大学生や社会人になった教え子が何人も訪ねて来ていました。慕われている父を誇らしく思ったことを昨日のように覚えています。

 経営者になって改めて、「一隅を照らす」という言葉の深みが理解できたような気がします。

 社員一人一人に素晴らしい個性がある。それぞれが置かれた立場で自分の個性を生かしながら顧客の満足にかなう仕事ができたなら、それが社員自身の幸せであり、ひいては会社の永続的な発展につながり、さらには会社の目的である社会貢献につながっていくのではないか。父に教わった言葉を会社経営に置き換えた時、会社が向かうべき方向性、ベクトルが見えてきたのです。

 弊社の経営理念「顧客の信頼に応え、地域社会への貢献とともに、社員の幸福と、会社の存続を目指す」は、まさに「一隅を照らす」という言葉がベースになっているのです。

個性を理解し、個性を認める

 話は少し脱線しますが、私が「個性」というものを語るうえで大切にしている一つのエピソードを紹介したいと思います。以下2005年9月の社内報に掲載したものです。
 1977年33才の春、私は念願の新築一戸建てマイホームを購入しました。その当時、熊本に住む叔父がお祝いに贈ってくれたのが大きな柱時計でした。30分おきに時を知らせる音が私の生活のリズムを作ってくれました。その後現住所に収まって10年が過ぎた頃から、しばしば止まるようになりました。単1電池1個で2年間動くはずが電池を取り替える間隔がだんだん短くなったのです。ある日、何気なく振り子が揺れるのを眺めていると、「カチッ、カチッ」と響く音が、左に揺れる時と右に揺れる時とでは微妙に違うことに気づきました。音の強弱が違うのです。どうしてだろうと疑問に思い時計を少し傾けてみると、傾きが大きいほど音の強弱に差が出てくることがわかりました。そこで、音が同じ大きさになるポジションがないかと探してみると、鉛直線から少し傾いたところにその位置がありました。そこで固定してみたところ、驚くなかれ時計は軽快なリズムを刻み始めたのです。その後、時計が止まったらまた同じように位置の調整を行い、それを何度か繰り返すうちに傾きは少しずつ大きくなりました。

 柱時計は鉛直に設置されるべきものであります。しかし、わが家の時計君は少し傾いた姿勢が「正常」だったのです。これを「個性」とでもいうのでしょうか。翻って、人もそれぞれに個性がある。わが家の時計君のように、通常の環境では力を発揮できない人もいるかもしれない。「個性を理解し、個性を認める寛容さが必要ですよ」と、毎朝出社時に時計君は私に語りかけてくれているような気がします。
(その後時計は修理に出し、44年経った今まっすぐな姿勢で時を刻んでいます。)

凡事を徹底する

 私は社員を誇りに思っています。弊社社員の特長を一言で表すなら、それは「凡事を徹底する」ことだと思います。「凡事を徹底する」とは、誰でもできるような平凡なことを、誰でもできないほど徹底して継続するという意味の言葉です。技術力にしても営業力にしても、総合力では大手企業には到底かないません。しかし、「凡事を徹底する」ことで、局地戦では互角の戦いを演じてきました。主要顧客である福岡県の成績評定ではトップクラスの評価点を得るようになりました。
大口径地すべり抑止杭工事現場
 私たちがいかにして顧客の信頼を勝ち取っていったのか。会社設立年の1990年の思い出も記しておきます。

 創業直後、ある大手設備工事業者の営業部長から電話が入りました。「あるゴルフ場計画現場で、工事が地下水に影響を及ぼさないか問題になっている。ついては意見を聞きたい。」と。他にも声をかけていたそうでしたが、当方の説明が良かったのか、開発業者に引き合わせてもらえることになりました。翌日現場に出向き踏査し、その翌日には所見を提出しました。すると数日後、担当者様から「このたびは迅速に対応いただき誠にありがとうございました。つきましてはコンサルタント料を請求してください」との電話が入りました。誠心誠意ご要望にお応えするのは当然のことであると考えていた私は、「営業の一環程度の仕事ですから、お金は要りません。何かできる仕事がありましたら声をかけてください」と、軽い気持ちで返事をしたのです。思いがけないことに、このことをオーナーが気に入られたようで、その後、クラブハウス、ホテル、構造物の基礎地盤調査、地下水調査・開発、遂には温泉掘削工事など、数多くの仕事をさせていただくことになりました。そして一生懸命に取り組んだ仕事は評価され、口コミで信用が広がり、大手ゼネコンからの依頼が次々に舞い込んできました。会社の財務基盤を早々と築くことができ、当時お世話になった皆様には心から感謝しています。ちなみに当社の所見で、他社と進めていた調査費用が5分の1になった、と後で聞かされました。

 私たちの業界には、大手企業から中小企業に至るまで優秀な人材が山のように存在します。当社の社員諸君ももちろん優秀ですが、大手には「特に選ばれた人材」が揃っています。野球でいうなら大手にはドラフト上位選手、そして私たちはドラフト下位・あるいは育成枠選手かも知れません。朝早くから夕方まで一生懸命練習する。「なにくそ」と頑張りぬく。そんな日々をコツコツと積み重ね、2軍のグラウンドから大手戦士がひしめく1軍のスタジアムへ。そこでも創意・工夫・情熱をもって、顧客の要望に誠心誠意お応えしていく。そのような姿勢と努力の積み重ねが、現在の株式会社ベクトルを築き上げたのだと自負しています。

誠心誠意をモットーに

 私は仕事を行う上では「誠心誠意」な姿勢をとても大切にし、社員にもこれを求め続けてきました。その原点ともいえるのが、遠い昔のこんなエピソードです。

 それは私が小学校4年生か5年生の頃のことだったと思います。母は面倒見の良い人で、家にはしょっちゅう誰かが遊びにきていました。その日訪ねてきたのは通称“オモン婆さん”でした。彼女の娘さんは、集団就職で大阪に行き、そこで結婚したと聞いていました。オモン婆さんは目が悪かったのか、娘さんからの手紙をいつも母に読んでもらいに来ていました。そして聞き終わると、「ありがとうございました。では、返事をこう書いてください」と母に頼むのです。母はオモン婆さんが考え考え断片的に発する言葉を整理して、「これで良いですか?」と、読み上げ、手持ちのはがきに代筆するのです。オモン婆さんは、「ありがとうございました」と言って、いつも母に10円を渡そうとしました。しかし母は「はがき代だけもらいます」といって、必ず5円のおつりを返しました。私はそんなやりとりを何度も見ていて、「なぜお母さんは10円を受け取らないのだろう」とずっと思っていました。そんなある日、私は尋ねました。「オモン婆さんがせっかく書き賃に5円とってくださいと言っているのに、なぜもらわないの?」と。その時、母は笑いながらこう答えました。「邦久、人から頼まれて何かしたとき、その代わりを受け取ったら何にもならん。せっかく行ったことが帳消しになってしまう。感謝されることは金には代えられんもんバイ」。私はそんな母がまぶしく見えました。

 相手の要望に応えるよう誠心誠意努めることの大切さを教えてくれた母。その行動と言葉は良き手本として私の心に刻み付けられ、人生の色々な場面に反映されています。

 私は、今は亡き母を心から尊敬しています。

次世代へのエールと皆様への感謝

 私は2016年に経営の第一線を退き、現在は相談役を務めております。今回、「創業者の想い」というテーマでメッセージを発信するに当たり、創業の精神や経営理念に込めた想い、などを語らせていただきました。

 改めて整理しますと「一隅を照らす人になる」これに尽きます。そのためには、志を高く持ち、「凡事を徹底する」「お客様のご要望に誠心誠意お応えする」「創意・工夫・情熱をもって仕事にあたる」。

 この言葉と精神を後進に引き継ぎ出来ればと願っております。

 うまくいかないことが必ずありますが、決して腐らず決して諦めず努力すれば、必ず道は開けます。そしてお客様や取引先様ほか周囲の皆様に感謝の気持ちを持ちつつ、全社員がみんな同じ方向を見て突き進んでもらいたいと思っています。


 最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。